第12 近代文学館企画展 郷土の文学碑展~国分寺編~ 平成22年2月20日~2月21日

[目次] 句碑・歌碑配置 瀧井孝作 茶流 水音社 森江鷁 北川可慎 短冊 田島春園

飛騨国分寺境内 句碑・歌碑配置

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瀧井孝作 句碑

 

 平成十一年十一月、医王山國分寺では、大銀杏保護用玉垣の完成を祝い、落慶法要が営まれた。記念に大銀杏と深い関わりのある、瀧井孝作のこの句を選び句碑を建立した。

【瀧井孝作(たきいこうさく)

明治27年(1894)4月4日~昭和59年(1984)11月21日

 小説家・文化功労者。高山市空町(現大門町)生れで東京都八王子市に居住。号は折柴。河東碧悟桐に師事し俳句の道に入った。大正8年(1919)時事新報記者になり、このころから芥川龍之介、志賀直哉らの知遇を得て文筆活動が旺盛となり『飛騨高山』などの短篇小説や随筆を次々に発表。昭和2年(1927)代表作『無限抱擁』発表。『野趣』で読売文学賞(昭和43(1968))
 『俳人仲間』で日本文学大賞(昭和49(1974))。作品は「瀧井文学」と評され、トツトツとした中にも独特の味わいを持つ。昭和10年(1935)の芥川賞創設から56年(1981)まで選考委員を務めた。俳句を生涯の友とし『瀧井孝作全句集』などがある。高山の観光ポスターに用いる「飛騨高山」の文字等六朝風の書法でも知られる。
日本芸術院会員(昭和34(1959))。高山市名誉市民(昭和46(1971))。文化功労者(昭和49(1974))。勲二等瑞宝章(昭和50(1975))。八王子市名誉市民(昭和50(1975))。

【飛騨人物事典】

茶流 句碑

 

水音社 句碑

(表面) (裏面)

 

 以前、三重の塔と大銀杏の間に、一本の桜の老木が有り、植物分類学者の牧野富太郎が「樹種はエドヒガンであり、もしかして、この桜は大銀杏よりも樹令が古いかも知れない」と言わしめたほどの桜樹。
 井上士朗のこの句碑は、その桜の木の傍らに建てられていたが、二・三十年前の台風で折れて枯死した後、碑は現在地に移された。

【水音社(すいおんしゃ)

 第十二代飛騨代官(後郡代)大原彦四郎紹正は、俳諧を好んで清流亭楚諾と号し明和3年(1766)同志と共に俳壇水音社を高山に起し、第一世の宗匠となった。同7年(1770)俳集「鳥の跡」一巻を刊行した。
 安永騒動以後水音社は一時振るわなかったが、近藤一左・平瀬東有・小野柳永・代情順教等によって幕末頃迄続き、明治時代絶えたが、上木雨台に依って再興された。【高山市史】

 

【井上士朗(いのうえしろう)

寛保2年(1742)~文化9年5月16日

 江戸後期の名古屋の俳人で、別号を枇杷園、朱樹と号した。高山、益田方面に弟子が多く、指導の為たびたび飛騨を訪れ長く逗留した。

森江鷁 句碑

 

 

(東面) (北面)

 

(南面)

 

【森江鷁(もりこうげき)

承応2年(1653)~享保16年(1731)7月19日

 森江鷁は古川町(飛騨市)生れ、幼名を与三郎、名は孝政、号を可参隠子。高山の森八郎兵衛に養われ通称を彦兵衛、号を賀弾と改め一家を立てて大坂屋治助と称し、後に小森姓を名乗る。宝永5年(1708)飛騨で最初の句集『久羅井山』を出版し、俳句結社「雲橋庵」を創立しその宗匠となる。

 

【久羅井山(くらいやま)

 「久羅井山」は森江鷁の著書で宝永5年(1708)10月出版、江鷁56歳の時である。飛騨に於ける俳書刊行の嚆矢とする。尾張名古屋住の露川(月空庵)の序文が見える。美濃派の各務支考門と伝えられているが明確ではない。

 

【澤露川】

寛文元年(1661)生

 『久羅井山』の序文を書いた澤露川は、伊賀上野在の生れ、後に名古屋の渡辺家の養子となり、藤屋市郎右衛門と称した。

季吟系の俳諧に親しみ、号を月空庵または月空居士と言った。貞享元年(1648)、芭蕉が『野ざらし紀行』の途次名古屋に立ち寄った時に、芭蕉に入門した名古屋の多くの俳人に対抗する様に『花虚木(はなうつぎ)』を出したが、元禄4年(1691)芭蕉が東武に帰る道すがら、宮の宿の梅人亭で入門した。芭蕉最晩年の門人とされる。各務支考の「露川を責む」の口上は俳諧史の中で特筆すべき論争が有り、支考門とあるのは誤り。

 

北川可慎 碑